明治維新という大変革によって、近代国家へと大変身した日本。薩摩藩は、長州、土佐と並び、新進気鋭の藩として名を連ね、歴史的人材を数多く輩出しました。薩摩英国館は、薩摩の近代化への分岐点となった「生麦事件」から「薩英戦争」さらに薩摩と英国の深い結びつきにスポットを当て、Illustrated London News(絵入りロンドンニュース)などの英国側史料から見た歴史を紹介しています。
文久2年8月21日(西暦では1862年9月14日)のこと、島津久光(斉彬公の異母弟、藩主忠義の父)の行列が、東海道生麦村(横浜近郊)に差し掛かった際に事件が起こりました。女性1人を含む4名の英国人が乗馬したまま行列に押し入ってしまい、供頭の奈良原喜左衛門らが「下馬して避けないのは無礼である」と、異人たちに斬りかかりました。世に言う生麦事件です。斬られたリチャードソンは亡くなり、事件後、英国は幕府に謝罪書と10万ポンドの賠償金を、薩摩藩に対しては「下手人の引き渡し」と「25000ポンドの賠償金」を要求。幕府はしぶしぶこれに応じましたが、薩摩藩はまったく応じませんでした。
ちょうど篤姫(島津斉彬養女、将軍徳川家定の正妻)にとって、14代将軍家茂(家定の養子)と皇女和宮(孝明天皇の妹)との婚儀が整い、しばらくした後のことです。
翌年夏、司令長官キューパー提督率いる英国艦隊7隻が鹿児島湾(錦江湾)に姿をあらわしました。駐日代理公使ニールをはじめ、通訳官アーネスト・サトウら公使館員らも、その旗艦ユーリアラスに乗ってやってきましたが、再三薩摩藩に賠償などの回答を迫ったものの交渉は進展しませんでした。ついに7月2日(1863年8月15日)、天保山砲台の号砲をきっかけに砲撃が始まり、艦隊もこれに応戦、薩英戦争となってしまったのです。
鹿児島の城下は焼け、薩摩藩は「外国人を武力で追い払う“攘夷”がいかに不可能か」ということを知ると同時に、西欧の軍事力と進んだ技術力を思い知らされました。一方、旗艦に砲弾を受け、多数の犠牲者を出した英国側も、薩摩藩の実力、経済力を見直し、また幕府の無力さを知って薩摩藩を積極的に支援するようになっていきます。この後、薩摩と英国の友好関係が維新史に大きな影響を及ぼすことになりました。
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