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TEALAN薩摩英国館について
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Story
南九州市知覧の自然豊かな場所で、「英国のカントリーサイドのようなスローライフが過ごせたら」―
そんな思いを込めて、薩摩英国館を開館しました。
初めは、英国側から見た歴史資料を展示するミュージアムと、英国の紅茶やお菓子、雑貨などを販売するミュージアムショップをオープン。 当時、英国の紅茶を100種ほど取り扱っていたこともあり、紅茶好きの方々がたくさんお越しくださるようになり、お客様のご要望でティールームを作りました。
そのうちに紅茶の世界にのめりこみ、自分たちで茶樹を植え、紅茶を作り始めたのが2000年のことでした。
薩摩で作られる紅茶の素晴らしさを、たくさんの方に知ってもらいたい、そして、この紅茶を飲んでゆとりあるひと時をもっていただきたい、と今も心を込めて作り続けています。
茶の文化について
茶がヨーロッパに伝わったのは17世紀初頭といわれています。
チャールズ二世の妃キャサリンが広めた紅茶。それをアフタヌーンティーという形にしたのは、イギリスの7代目ベッドフォード侯爵夫人といわれています。
一方、日本の喫茶の起源については平安初期の「日本後紀」に記述があり、鎌倉時代末には相当普及していたようです。
知覧の茶の栽培は平家の落人が始めたという言い伝えがあります。
薩摩英国館では茶の栽培、紅茶の製造も行っております。
11月1日は紅茶の日です。
海難にあってロシアに漂着した日本人、伊勢の国(現在の三重県)の船主・大黒屋光太夫は、ロシアに10年間滞在せざるを得ませんでした。
帰国の許可を得るまでの辛苦の生活の中で、ロシアの上流社会に普及しつつあったお茶会に招かれる幸運に恵まれます。
とりわけ1791年の11月には女帝エカテリーナ2世にも接見の栄に浴し、茶会にも招かれたと考えられています。この大黒屋光太夫が日本人として初めて、外国での正式の茶会で紅茶を飲んだ最初の人になったという史実に基づいて、日本紅茶協会が1983年(昭和58年)に、11月1日を紅茶の日と定めました。
歴史に見る英国との関わり
明治維新という大変革によって、近代国家へと大変身した日本。薩摩藩は、長州、土佐と並び、新進気鋭の藩として名を連ね、歴史的人材を数多く輩出しました。薩摩英国館は、薩摩の近代化への分岐点となった「生麦事件」から「薩英戦争」さらに薩摩と英国の深い結びつきにスポットを当て、Illustrated London News(絵入りロンドンニュース)などの英国側史料から見た歴史を紹介しています。
文久2年8月21日(西暦では1862年9月14日)のこと、島津久光(斉彬公の異母弟、藩主忠義の父)の行列が、東海道生麦村(横浜近郊)に差し掛かった際に事件が起こりました。女性1人を含む4名の英国人が乗馬したまま行列に押し入ってしまい、供頭の奈良原喜左衛門らが「下馬して避けないのは無礼である」と、異人たちに斬りかかりました。世に言う生麦事件です。斬られたリチャードソンは亡くなり、事件後、英国は幕府に謝罪書と10万ポンドの賠償金を、薩摩藩に対しては「下手人の引き渡し」と「25000ポンドの賠償金」を要求。幕府はしぶしぶこれに応じましたが、薩摩藩はまったく応じませんでした。
ちょうど篤姫(島津斉彬養女、将軍徳川家定の正妻)にとって、14代将軍家茂(家定の養子)と皇女和宮(孝明天皇の妹)との婚儀が整い、しばらくした後のことです。
翌年夏、司令長官キューパー提督率いる英国艦隊7隻が鹿児島湾(錦江湾)に姿をあらわしました。駐日代理公使ニールをはじめ、通訳官アーネスト・サトウら公使館員らも、その旗艦ユーリアラスに乗ってやってきましたが、再三薩摩藩に賠償などの回答を迫ったものの交渉は進展しませんでした。ついに7月2日(1863年8月15日)、天保山砲台の号砲をきっかけに砲撃が始まり、艦隊もこれに応戦、薩英戦争となってしまったのです。
鹿児島の城下は焼け、薩摩藩は「外国人を武力で追い払う“攘夷”がいかに不可能か」ということを知ると同時に、西欧の軍事力と進んだ技術力を思い知らされました。一方、旗艦に砲弾を受け、多数の犠牲者を出した英国側も、薩摩藩の実力、経済力を見直し、また幕府の無力さを知って薩摩藩を積極的に支援するようになっていきます。この後、薩摩と英国の友好関係が維新史に大きな影響を及ぼすことになりました。
戦争から友好へ
1864年のイギリス議会で、薩英戦争における鹿児島市街砲撃が問題になりました。ヴィクトリア女王はその開会あいさつの中で、罪もない市民に多大な被害を与えたことに対し、遺憾の意を表明していました。当時の新聞で報じられています。
災い転じて福となす、の諺(ことわざ)通り、薩摩藩は英国への留学生を計画。これは島津斉彬公が念願していて果たせず、その遺志をくんだ五代友厚が建言し、小松帯刀・大久保利通らの尽力によって実現しました。慶応元年(1865年)春、串木野の羽島浦から薩摩藩留学生の一行が英国のサザンプトンへ向け出航したのです。
幕末とはいえ、海外への渡航は禁止されており、甑島や奄美大島への出張という名目で変名を用いての密航でした。新納刑部(久脩)を団長とする4名の外交使節、開成所(薩摩藩の洋学校)の生徒を中心とした15人の留学生。いずれも20歳前後の俊英たちで、最年長は引率役の松木弘安と新納の34歳、最年少は弱冠13歳の磯永彦輔(のちの長沢鼎)でした。
留学生らは1867年に開催されたパリ万国博覧会にも、薩摩藩の独自展示のために参加。「薩摩琉球国」の名称で出品し、薩摩焼などを世界に披露したことでも知られています。
これらは「絵入りロンドンニュース」でも報じられていますが、同紙は当時の様子を知る上で貴重な資料になっています。世界中のことを絵(イラスト)入りで紹介する、庶民向けの新聞で、今日で言う週刊誌的な役割を果たしていました。1861年、来日した特派員ワーグマンらが幕末の日本の世相や事件を本国に送り続け、数多くの記事と銅版画が掲載されました。
当館において展示しているものは、非常に保存状態のよいオリジナル。当時の雰囲気を伝えるページを表装して、展示しています。